修理に出ていたライアが昨日、戻って来ました。
とはいえ、こちらの写真は・・(探してみました)・・以前のブログ記事でライアについて触れていた時に載せていたもの。当時の自宅はサロンも兼ねていたので、そのスペースで撮影していました。今はサロンに置いてあるグッズたちが確かに映っている。。笑
こちらは、アウリスライアーといって、スェーデンの工房で造られています。娘の学校のセンセから聞いたところによると、職人さんは女性だとか。メインブログ「世界樹の木影で」のこから記憶をたどると、確か2011年のはじめころに「シュタイナー学校にお世話になるご縁ですから」と、昔から竪琴系は好きなので、深く鑑みることもなく学校の母たちによる「ライアの会」に参加・・そう、確かちょうど同じクラスのお母さんが立ち上げた所だったというタイミングもあり。
リンクした記事にも書いたように、一般的なライアとは少し違う。私がこれをマイライアとして迎えたのは、単純に安価な中でも演奏は何とかできる弦の数・・で・・思い立ったが吉日、すぐに形から整えようとするヒトなので、その時の自分がすぐに購入できるものというだけの理由で選びました。
共鳴板という箱のようなものが着いていない一枚板タイプなので、特徴としては、ホワンホワンというライアでイメージする音色にくらべるとややギターのような音が出ます。ちょっと冴えたクールな音、男性的な音といった所でしょうか。
実はこちらのマイライア、その後、練習に参加することも心と現実のゆとりの幅からままならなくなり、インテリアとなってずっとサロンのロフトに置いてありました。あれから、そうですね、数えればなんと4年の月日! 湿気や温度でも変化してしまう繊細な学期なのに、可愛がることもケアすることもないまま、申訳ない状態に。
いつか修理に出さねばと思っていました。木の変形によるのか、弦をとめる金具や木がずれてしまっていたのです。弾ける状態ではなく・・(使わない時は大事に仕舞っておくか、人に貸して弾いてもらっておくのがよいそうですが)・・・けれど、バタバタと細腕繁盛記の日々の中、そんな心のゆとりもないまま。。。
何か時期、タイミングが来たのでしょうね。
まったく違う理由で、シュタイナーのとある書籍について検索を掛けていたら、もう絶版で中古は値段が跳ね上がっている本なので中々見つからず、探して探してとやっているうちに、とあるシュタイナーグッズのお店へ。それは、4年前にこのアウリスさんを買ったお店だったのでした。
見つからなかったシュタイナー本も、そこで初めて目にする重装版のような珍しいタイプを発見し、何だかとてもご縁を感じました。そう、ちょうど別の方向性からも、去年からつっつかれていた「音に関すること」をする、それがようやく現実化する潮流が生まれはじめていた所だったので。「ああ、そうか。。ライアもそれでは一緒に、眠りから覚めるのね・・」と気づいて。
本の注文のついでに、修理を依頼したのでした。
そして昨日届いてみて感じたのは、
私はこういう(最近はそうでもないけれど)「思い立ったらすぐ」という人であったため、4年前に注文した時は、そんな私に相応しいものだったのでしょう、恐らくお店で在庫されているものがすぐに届きました。「スウェーデンから取り寄せかしら」なんてドキドキしていたのが、それで少し、当時は拍子抜け。それも何となく、弦が錆びていましたし・・どうせならば、作り立てで海外からゆっくりと、待たされてもいいから、「私のために届いた」という気分を味わっても良かったかも、と、淡く思っていました。
でも、あのころの自分や、その後のライアを巡るいろいろや、そもそものきっかけとなったシュタイナー教育、シュタイナーさんとの関係性の当時の在り方を振り返ると・・・・
まさに、「楽器は生きている」
このアウリスさんは、当時の私を・・少なくとも、ライアやシュタイナー教育に対する自分の姿を、象徴するようなものとして、私の所に来ていたんだと思います。
どんな世界にも、深い奥義のようなものがある。まだまだですが、当時4年生で編入した娘が今では最高学年の9年生。親としても少し、知識ではなく知恵の部分で、成長したかと思います。それはシュタイナーの奥義というよりも、何でしょうか、それを守ろうとしている人々や、そこで守られている子供たちが奏でるシンフォニーの、その奥に広がっている更に人智学や神智学の奥行きのようなもの。「こうだ」「ああだ」とは言い切れない複雑さの中に、小さな結晶の輝きが放つ光の放射が、目をこらせば見えてくるようなもの。。。。。
ライア、シュタイナーだけではなく(というか全く私のヒーラーとしての日常はそれともすべて連動したひとつの現実世界ですが)、アルガンザやリュミエール、カレッジやアースワーク、すべての活動を通じての自分自身の在り方の変遷と、今このタイミングを象徴するように、今回、ちょっと手の込んだ大掛かりな修理をしていただき、帰ってきたライアは、
4年前、注文したらすぐに届いた、恐らくお店に在庫されていたものがすぐに送られてきたあの時とは、明らかに「別人」になっていて
お店の方とメールでやりとりをして、簡単な言葉ですが交わして、またこちらが探し求めてやっとみつけた書籍も一緒に、ライアの修理を待って送っていただくという流れを踏む中で、エネルギーが入ったのだと思います。今回は、「何となく」手にするライアではなく、間違いなく私のライアとして、戻って来ました。修理していただく際に、書籍のいきさつやメールのやりとりを通じて、恐らく職人さんはビビっと受信し、無意識にも相手のエナジーのチャネルになってくれるたのだろうと思いました。
音もまったく、以前とは違うように響きます。
お帰りなさい。。。
love and gratitude,
Amari
とはいえ、こちらの写真は・・(探してみました)・・以前のブログ記事でライアについて触れていた時に載せていたもの。当時の自宅はサロンも兼ねていたので、そのスペースで撮影していました。今はサロンに置いてあるグッズたちが確かに映っている。。笑
こちらは、アウリスライアーといって、スェーデンの工房で造られています。娘の学校のセンセから聞いたところによると、職人さんは女性だとか。メインブログ「世界樹の木影で」のこから記憶をたどると、確か2011年のはじめころに「シュタイナー学校にお世話になるご縁ですから」と、昔から竪琴系は好きなので、深く鑑みることもなく学校の母たちによる「ライアの会」に参加・・そう、確かちょうど同じクラスのお母さんが立ち上げた所だったというタイミングもあり。
リンクした記事にも書いたように、一般的なライアとは少し違う。私がこれをマイライアとして迎えたのは、単純に安価な中でも演奏は何とかできる弦の数・・で・・思い立ったが吉日、すぐに形から整えようとするヒトなので、その時の自分がすぐに購入できるものというだけの理由で選びました。
共鳴板という箱のようなものが着いていない一枚板タイプなので、特徴としては、ホワンホワンというライアでイメージする音色にくらべるとややギターのような音が出ます。ちょっと冴えたクールな音、男性的な音といった所でしょうか。
実はこちらのマイライア、その後、練習に参加することも心と現実のゆとりの幅からままならなくなり、インテリアとなってずっとサロンのロフトに置いてありました。あれから、そうですね、数えればなんと4年の月日! 湿気や温度でも変化してしまう繊細な学期なのに、可愛がることもケアすることもないまま、申訳ない状態に。
いつか修理に出さねばと思っていました。木の変形によるのか、弦をとめる金具や木がずれてしまっていたのです。弾ける状態ではなく・・(使わない時は大事に仕舞っておくか、人に貸して弾いてもらっておくのがよいそうですが)・・・けれど、バタバタと細腕繁盛記の日々の中、そんな心のゆとりもないまま。。。
何か時期、タイミングが来たのでしょうね。
まったく違う理由で、シュタイナーのとある書籍について検索を掛けていたら、もう絶版で中古は値段が跳ね上がっている本なので中々見つからず、探して探してとやっているうちに、とあるシュタイナーグッズのお店へ。それは、4年前にこのアウリスさんを買ったお店だったのでした。
見つからなかったシュタイナー本も、そこで初めて目にする重装版のような珍しいタイプを発見し、何だかとてもご縁を感じました。そう、ちょうど別の方向性からも、去年からつっつかれていた「音に関すること」をする、それがようやく現実化する潮流が生まれはじめていた所だったので。「ああ、そうか。。ライアもそれでは一緒に、眠りから覚めるのね・・」と気づいて。
本の注文のついでに、修理を依頼したのでした。
そして昨日届いてみて感じたのは、
私はこういう(最近はそうでもないけれど)「思い立ったらすぐ」という人であったため、4年前に注文した時は、そんな私に相応しいものだったのでしょう、恐らくお店で在庫されているものがすぐに届きました。「スウェーデンから取り寄せかしら」なんてドキドキしていたのが、それで少し、当時は拍子抜け。それも何となく、弦が錆びていましたし・・どうせならば、作り立てで海外からゆっくりと、待たされてもいいから、「私のために届いた」という気分を味わっても良かったかも、と、淡く思っていました。
でも、あのころの自分や、その後のライアを巡るいろいろや、そもそものきっかけとなったシュタイナー教育、シュタイナーさんとの関係性の当時の在り方を振り返ると・・・・
まさに、「楽器は生きている」
このアウリスさんは、当時の私を・・少なくとも、ライアやシュタイナー教育に対する自分の姿を、象徴するようなものとして、私の所に来ていたんだと思います。
どんな世界にも、深い奥義のようなものがある。まだまだですが、当時4年生で編入した娘が今では最高学年の9年生。親としても少し、知識ではなく知恵の部分で、成長したかと思います。それはシュタイナーの奥義というよりも、何でしょうか、それを守ろうとしている人々や、そこで守られている子供たちが奏でるシンフォニーの、その奥に広がっている更に人智学や神智学の奥行きのようなもの。「こうだ」「ああだ」とは言い切れない複雑さの中に、小さな結晶の輝きが放つ光の放射が、目をこらせば見えてくるようなもの。。。。。
ライア、シュタイナーだけではなく(というか全く私のヒーラーとしての日常はそれともすべて連動したひとつの現実世界ですが)、アルガンザやリュミエール、カレッジやアースワーク、すべての活動を通じての自分自身の在り方の変遷と、今このタイミングを象徴するように、今回、ちょっと手の込んだ大掛かりな修理をしていただき、帰ってきたライアは、
4年前、注文したらすぐに届いた、恐らくお店に在庫されていたものがすぐに送られてきたあの時とは、明らかに「別人」になっていて
お店の方とメールでやりとりをして、簡単な言葉ですが交わして、またこちらが探し求めてやっとみつけた書籍も一緒に、ライアの修理を待って送っていただくという流れを踏む中で、エネルギーが入ったのだと思います。今回は、「何となく」手にするライアではなく、間違いなく私のライアとして、戻って来ました。修理していただく際に、書籍のいきさつやメールのやりとりを通じて、恐らく職人さんはビビっと受信し、無意識にも相手のエナジーのチャネルになってくれるたのだろうと思いました。
音もまったく、以前とは違うように響きます。
お帰りなさい。。。
love and gratitude,
Amari