2015年7月11日土曜日

祈り。それは私なりに・・委ねの道。



フルグライト。砂漠に落ちた雷の衝撃で、砂がガラス化したもの。
雷管石とも、閃電石とも言われる。

私がこの石を知ったのは、だいぶ前だけれどナディアさんが出しておられる『クルスタルアライカード』にて。そこでは、嵐のエレメンツの石として紹介されていて、テーマは『祈り』

変容・変化を劇的に促す。そのための祈りを宇宙に伝える石、そういう存在感。



原石も、大きいものは珍しく、なかなか見つけられない。石巫女などサロンでの活用のためにキープしておこうと思っているこちらの原石。上の写真で一緒に映っているのはいつもの作家さんのワイヤーワークが美しいシルバーペントップ。これららはリュミエールに出したいと思っていマス。

手にしていると、パワフルで細かい電流のようなエナジーを感じる。暖かくて、意外となめらか。「嵐のエレメンツ」に属するゆえに嵐のようなスピード感のある変容と、濃縮された自然元素が詰まったようなエナジーを齎すのでしょうか。

不思議で何ともいえない魅力のあるヒーリンスストーンとしてのフルグライトの個性とは何なのかと、この不思議な姿を見つめながら想いを馳せてみると・・・そもそも「祈り」とは?という問いかけへと流れて行く。。。

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19歳から29歳まで、私は仏教徒をしていた。幼い頃に母が細々と読経したり、色々な現象に先祖供養の観点から当たる親族の姿を見ていたけれど、そこで恐らく恩恵も受けていた一方で、思春期の頃、本当にいわゆるオーソドックスな霊現象というか、ヒョウイや、下手をすると霊障によって健康も人生もボロボロになるような展開を、目の当たりにしてしまい、それを何とか助け合おうと信仰の力で乗り切る人々、ヒョウイをあっという間に解いたエクソシストのような親戚のおじさんのカッコいい姿などを見ていたとはえ、幼い私が思ったことは(当然だと思うけど)『こんな世界いやだ、関わりたくない』・・

当然だとも思う。14歳にして、3歳のいとこに低級霊が入り、抜けていく様子を数十分に渡り見てしまったんだから。。そのよく分からないものと会話もしてしまった・・ショックは大きかった。

振り返ると、育った街が一年の半分は陰のエネルギーに包まれているゆえか、その暗い空の印象とともに、中学生以後の記憶は常に、まるでロシアの奥地にでも住んでいたかのような陰湿な空と空気の気配の中で思いだされる。実際に、実家の周辺でも「これは何かありますね」と素人でも思うような因縁の現象化がつづいて、所属していた信仰の世界ではそういう場合、「土地の因縁」と言って、地鎮対象になる。他、病気や家庭内の問題も然りで、先祖供養に励む。

どなたかご先祖のうかばれないエネルギーがその現象として出ている・・土地の因縁が・・と、問題が見つかるたびに人々は対処するという方法をとる。自分と、家族などの他者、他人、会ったこともない人、時には日本国や世界全体などの抽象的な事も。「何かあれば、原因に対して対処する」

その「対処」のもっともオーソドックスな方法は、修行や読経を通じておこなう「念願」というもの。つまり、祈りのパッケージだ。だいたい21日間など日数を区切り、時には「コーヒーのまない」などの「断ちもの」をして臨む。毎日自分で決めた読経のメニューをこなす。または「怒らない」「愚痴をいわない」などメンタルな宿題を自分に課すこともある。

誰しもがそれを真面目にやっているという訳ではなく、色んな会員が居たけれど、地域の集まりや女性の集い、若者たちの集いなどのユニットに所属して活動していると、その中で浮上してきたテーマを一緒に、「いつからいつまでこれをやりましょう」と修行のメニューにしたり、先輩たちから個人の問題を克服するべくおすすめの修行やお経を教えられたりする。

19歳、横浜で暮らしていた学生時代。血は繋がっていないけれど、優しくて暖かくて大きな太陽のようなものを感じていた親戚のおじさんが、急に病気で倒れたと聞いた時。今思うと不思議だけれど突然に、信仰をしようと想い立った。ネガティブな側面をたくさん見てしまい、スピリチュアルな事には関わりたくないと考えていたのに、今思うと不思議な決断だった。自分に出来ることは伯父のために祈ることだと何故かあっさりとそこに至った。私が信仰をすると宣言したことで、母や、信仰している母方の伯母や従姉妹はとても歓び、首都圏や関東での集まりに誘われるようになる。

それから10年。何となく所属している若者たちもたくさん居る中で、性格ゆえに私は火がついたように熱心に修行し、日々の念願、年に一度の修行の登山、観音経を1000回あげる(普通にいくと3年かかる)という修行を3サイクルもやってみたり、真冬の新潟で未明に108杯の水をかぶり、まだ暗いうちに金星に拝礼したあとに、過去生の懺悔を通すための長いお経を読む・・ などの若い娘としてはかなり目立つような修行振りだった。日本の土地を守る神々を大切にするという団体だったため、仏教ながらに神社への参拝をたくさんしていた。

折しも20歳から、偶然のタイミングだったけれど(もちろん必然なのでしょう)京都旅行で比叡山へ行って仏像と仏教の世界に引き込まれ、京都奈良へ沢山行こうと思い立ってまずは奈良へ友人と出向き、何の気なしに旅程に入れていた三輪山を一目見てノスタルジーを感じて、恐らくそこにあった元伊勢のエネルギーなどに導かれたのか、奈良と伊勢を中心に以後、ちょうど仏教徒時代とかぶるように独り旅&古代史・神話探求時代が始まる。。。

そんなことをどっぷりとやりながら、花盛りの二十代の青春も今思えばかなり濃縮した一時期、追い求めて駆け抜けていたかな。でも専ら自分が欲していたものは「スピリチュアル」だったと言えるかも。常に深い部分まで刺さることしか、やりたくなかった。恐らくインディゴ先発隊。魂に通うようなことしか興味がなく、それがハードロックのコンサートであったり、ニューヨークに引かれて語学留学することであったり。青春の矛先は、今の自分の表現に載せれば「タマシイ層まで響いていくこと」だったのかもしれない。刹那的ですぐに消えていくようなジャンルには、まったくもって興味引かれなかった。(だから恋愛なんて全くしていなかった。笑)

ちなみに所属していた信仰の団体は、それなりに全国に会員も居るようなところだけど、世帯ごとに小さな子どものおこづかい程度の会費のみ集めて、寄付やお賽銭は一切受けとらず、何か特別な祈祷などしてもらった時でさえ(その流れに乗るのはまさに天の計らいのような特別なケース)まったく金銭を要求されることなどない、本当に真面目な団体で、ひたすら先祖供養、自分の心を作っていくことに励んでいる。首都圏の若い集まりなどに参加すると本当に女性たちは美しいし、男性も今時ないような芯の入った凛々しさがあり、たとえば女性だと身のこなしや身なりなども気をつける空気があり、信仰によって人が磨かれるとはこういうことかと、二十代の自分なりに学ばせて頂いた。

地方に行くとそれなりにまた状況は違っていて、それを「土地が持っている因縁」ゆえだと説明することもある。中央で常識的に皆が出来ていること、開いている意識が、地方に行くとまったく通用しない。何か負のスパイラルが発生し、グループ意識が下がっているのが分かる。また各地域によって、その土地の歴史的なカルマなどから、実際の会員たちに現れる傾向(たとえば晩婚や病気など)に影響が出るとして、その土地が持っているテーマに皆で取り組んだりもする。

幼い頃から自然体で信仰していたという仲間が多い中で、19歳で自ら決断しその世界に参入したのと、プライベートな自分も土地巡りや歴史に浸かっていた故だと思うけれど、グループ意識ごとはまり込んでいる「土地の因縁」のエナジーを何とか解こうと、自分としては改革・革命?を起こそうという勢いで・・鎌倉仏教の始祖たちの、あるいは世界史の中で人民の意識をひらくべく新潮流を説いて矢面に立つような、そんな勢いでプロジェクトしていたこともあったっけ。。恐らくたくさんの過去生で、信仰、宗教、人々の意識、抑圧や弾圧などを味わっていたものを、その二十代でなぞっていたのだと思う。

スピリチュアルなことに関して、そして実際にその力が作動する場や現象の中で、様々に交錯する良いものも重たいものも、かなり密度濃く味わった。そこに自ら踏み込んだというか・・そうはいっても、今のようなエネルギーと宇宙的力学の知識はそこでは与えられていないので、心身ともにダメージも多い。高揚する場面も、力を頂くことも多々あるけれど、個人として自分という領域を守る術はこれといって無かった。プロテクションの究呪はもうソラでいつでも繰り出せるように皆、親しんでいたけれど(今でもたまに出てくる)、内容を吟味するとまるで「呪い返し」であることが分かる。だからカルマが出来る。それにまた対応する、その繰り返しであると今では見えてくる。

「祈り」も同じだと、実は思っている。

信仰というスタイルは、個々の人間を苦しみから救う力は確かにある。けれどその先は・・

人間とは、本来なんであるのか。自然界と、故郷である宇宙とどのように繋がっているのか。それとどんな風に響き合い、影響を受け取り、結果、良いことや良くないことへとそれが現象化しているのか。良いことを更に拡げていき、良くないことの元になっている要素を(カルマを作らず)なくしていくには、どうすればいいのか。。。

本来、すべての信仰にはそのエッセンスが含まれていた筈だけれど、どこかで、その宇宙の普遍愛の中で機能するシステムに関する叡智は、一斉に失われてしまった。小さく弱いものとして信仰の力で何とか生きていく・・・実際に歴史の流れの中で、「普通に生きる」ことも侭ならない状況にある人々には、信仰が必要であったし、今もってそうだろうと思う。心の拠り所があれば、人は希望とともに強く生きようとする。

ニューエイジの世界でも普通に行なわれる、祈りやそれによく似たものは、違う視点からするとカルマをつくっているとも言える。お互いに影響・作用しあう力学が結びついてしまうと、いつか解かなくてはならない、良いものであっても「しがらみ」になる。これは、人間レベルというよりはソウル、スピリットレベルのお話。今のニューエイジも色々だろうけれど、私が思っているメタフィジカルな「道」のようなものは、自分自身の分身である「ソウル」ではなく、一段高いシステムに居る自分=スピリット(いわゆるハイヤーセルフ)のエネルギーと意識に近づいていく道のりだろうと。

祈りを上手に使い、できれば周りの人々の苦しみや、世界に向けることで結果が現れるならばそれで良いと思う。ただ、こういうジャンルで仕事をして、体験も積みながら10年以上を経てくると、「祈り」というものについても、そこに様々な周波数があり、気を付けて使わないと結局はエネルギーの応酬を生み出すことが分かる。ゆえに「カルマ」。

「祈り」という言葉はたくさん、仕事の中で使っているし(「〜の祈り」など)これからも不可欠であるけれど、自分自身の「願望」にせよ、他者への「こうなってほしい」という想いにせよ、宇宙のより高い視点から見ればそれはエゴであるに過ぎない。だから、なるべく純粋な「意図」に変えて、そして宇宙への宣言、つまり「宣誓」「コミットメント」として自然体で日々、活用していくのは良い。「願い」がどこから始まって、未来の先にそれがどう自分に具現化するかを深く感じたり考えてみると、その出所がエゴであるか、純粋な宇宙とのエネルギー作用のコラボレーションであるかが、見えてくる。

つまり人間として、人間の自分のあれこれを満たすことを願う、そのための祈りはエゴから来る。その祈りは、うまくいって成就されるかもしれないけれど、エゴセルフのレベル(人間の人格)が起こした力学だから、そこに自分を縛り付ける。もちろん、人はみなこれをやり乍ら生きているし、悪いことでは全くない。願う事、それに基づいて祈ることは、ごく普通の感性の働きだ。

けれど、地上の「パーソナリティ」(人間)レベルで動かした力学は、スピリットの層から見れば自分の魂の子供であるソウルの転生のタペストリーに交錯している雑音のようなものかもしれない。エイっと上に引き上がる、宇宙愛への回帰にとって、それは小さな画鋲であちこち留められているような状態。原因と結果の繰り返しを、またこの層に戻って続けていくのだろという、そのための布石たち。

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恐らくまだ「画鋲」が必要、「画鋲」で留めておきたい人と、もうそれは抜けて行く事が生まれてきたスピリットの目的であると深い所で分かっている人が居る。殆どは前者だけれど。

「委ね」とか「あるがまま」とか、言葉は簡単に飛び交うけれど、

色々な情報に「混乱している」という言葉も、サロンのクライアントさんたちからよく聞いている。もちろん、そもそもこういう世界で「情報を得て落ちつく」ことは不可能で、情報をある程度、それも選び乍ら集めたら、その先は自分自身の内側で、エネルギーの力学を起こさなくてはならない。自分の身体の細胞と、オーラフィールドに融け込んだものを発信していくと、聞いた人・読んだ人にもその作用が起こり、エネルギーは動き出す。それが、情報を得て、情報のまままた横に流すような現象も起きているために、それを見た人たちのエネルギーは動かず、ただ頭だけが動いて混乱する。

三次元人間をたくさんやって来たから、誰しもが恐れるし、何かに「委ねる」なんて怖いと本能的に思ってしまう。けれど、誰かよく分からない大きなものに委ねるのではなく、自分自身の高い所に委ねるのだと思えばいい。それと、自分自身とは、その高い所から今ここに滴が垂れるように降りてきた存在であると思うことで、委ねがやりやすくなる。

地球という地図の上にたくさんばらまかれた自分の分身たち。転生してきたソウルたち。そこで関わった様々な他のソウル、土地や事象などに宿るエネルギーとも、人は絡み合いながら繋がり合っている。今を生きる自分が幸せであるかを、メタフィジカルな目的だと思っている人は、それで良いと思う。それを大前提として・・(そこを通過しないと進めない訳で)・・・より高い視点からの自分自身のスピリットの眼差しを、人生に感じている人は、その眼差しこそが自分が戻る視点であると感じている人は、今生の自分のソウルが落ちついて来た、『願望』はもう要らないと感じるようになった人は・・・

画鋲を少しずつ、外していく行程に入ってみると良いのかもしれない。

それが「委ね」だろうと思っている。

その潮流が見えて来る頃には、委ねる恐れというのは、なくなっている。

だから、恐れるうちはまだ、無理せずに「願い」「祈り」「受け取り」「感謝し」「そこで生まれたものを引き受ける」この循環の中に、生きるのだと思う。

潮流が見えることは、楽しい訳でもなく、今の人類が居る世界がそこから離れている分だけ、両者の間に居る者は、切なさを感じる。マリア様や観音様の「慈悲」は、そういったものだと思う。高次存在たちが、人間に対して感じる愛が「哀れみ」であるのは。そんな慈悲の心境を持ちながら、ソウルを選び、スピリット層が直に高いパーセンテージで自身の要素を流し込み生まれて来た人たち(=いわゆるライトワーカー)が居て、そういう人々の場合、そこに気づかず、またはそれを恐れて避けるような回り道をしている間は、苦しさ、居心地の悪さ、現実の循環の不具合が続く。

ちなみに、本当にそれを分かって降りて来ているスピリットたちは、慈悲という痛みを携えてやって来ていて、まずは人間の身体の中でそれを越えていくことに励み、それが成就した時にはホっとした委ねの境地に入るので、『自分が特別な存在である』と地上人類的な虚栄に入ることは無い。それすらも委ねられるはずであり、祈りと委ねが一体となっていく。ただここに在る自分を使って下さいとスピリットに委ねる。それは安直に使われる「もう犠牲は要らない、人生を楽しもう」というお話とは全く波動が違っていて、人生を楽しもう・・の想いが実際に満たされるか、その奥にあるものを知ってしまい三次元的願望を越えてしまうか、どちらかによって自然に至る境地だと思う。

フルグライトを眺めていたら、最近思っていたこととを吸い寄せ、随分と思考が展開してしまった。。。(長過ぎた/笑)

このくらいにしておきます。

Love and Grace,
Amari