2015年8月1日土曜日

空と光の向こう側


アルガンザ『石巫女クラブ』11月開講(~3月まで)

せっかくのネーミング。和のテイストにこだわり?たいと思っています。石に宿るスピリット「いしだま」と語らい、その世界と天地、人の世界をつなぐ。きっと私たちが過去生で?やっていたであろうシャーマン道を想い出しながら。。。




なかなかに濃密だった、この一週間のダイヤリーを、毎日みとれるほど美しかった夕空の写真とともに綴ろうかな。すべてサロンのあるビルの玄関テラスから。(スマホで撮影)


前記事を書いたのは23日木曜日か。。
土曜日、25日に『エネクリ』を、27日には本家ブログ『世界樹の木影で』を更新していますので、良かったら合わせてご覧ください。

これらのブログにも書いているように、目下、メンタル体の進化期なのだと自覚している日々ですが、先日書いたような哀切や虚しさへ通じる静かな悲しみみたいなものって割と自分のかなり古い時代からずっと持っているものでもあります。転生ソウルたちの記憶だと思いますが・・「普通の人」として生きたことが多分ほとんど・・きっと数えられる程しか、「無い」ようなので(笑)今生、ヒーラーをしていて、その立ち場としてのあれこれという所に、恐らくソウルたちの記憶も直結しているのかもしれない。「ハピ」「ガイアナ」などの主人公の巫女姫などもまったくそういう所を源にしているのだろうなあ。

そうそう、先日、カレッジ生でヒーラーさんをしている方のオリジナルワークをモニタリングさせていただく機会がありました。人様のセッションを受けるというのもたまには良いですよネ。そのときにリーディングして頂いた中に、とても興味深いものがありました。

過去生の私と思われる女性シャーマン、コンビを組んでいる男性シャーマンが、ともにアースワークのようなことをしている中で、男性のほうが「龍に取り込まれてしまった」・・そのまま呑み込まれたか、龍に変ってしまったようなヴィジョンだったようですが、その龍を私が岩戸のようなところへ封印したというお話でした。

その方も、男性が『龍に呑み込まれて龍に変った』というヴィジョンは「エネルギー的なことなのかも」とも仰っていましたが、何となく記憶が開くように私も、それは「逆の力に取り込まれてしまった」ということではないかなと感じ、何かとても深い所へ、響いていくような気がしました。そして文学的に頭の中で物語を巡らせてしまったのですが(笑)・・(空想におつきあい下さい)

パートナーシップで動いていた相方を、(あえて表現するならば)闇の力に囚われてしまったという理由で、自ら封印することを選択したら、それはそれは、思い残すだろうし、後悔や自責や悲壮感も残るのではないかな。ましてその相方の魂は、人の転生にその後戻っただろうけれど、まだ拾いあげなくてはならない断片のように、その場に記憶を残しているかもしれない。古代の日本かな、という感じでその場では聞いていたけれど、レムリア系のエネルギーだったし、よりエネルギーがダイナミックに実在していたような気がするので、日本は日本でもレムリア期かもしれないな。。と。きっと、自分の側のその時の記憶、とくに最近浮上していた悲壮感のようなものを、癒して頂いたように思います。A さんありがとう!

超古日本のあれこれも自分にあるのだろうし、現実でここ2週間くらいかな、行き交っていたエネルギーは、思えば7月始めの読書会での、私以外のメンバー四人で急に起きていた瞑想ワークから、一連の数珠だったのかもしれない。そんな呟きでしたが、アースワークは迫られた時には動きますが、最終的には執筆の中に(自動書記によるチャネリングで)真実を求めていこう。



26日(日)は、午前は3期生の方、午後は卒業生の方が来てくださいました。ソウルインテグレーション、レコンセクレーション。「木影」の記事にもすこし書きましたが・・生き生きとした姿に、むしろ私が元気を貰った様な感じでした。ありがとう~。


そして28日(火)、29日(水)には例の・・レコーディングinサロン。の筈でしたが、作曲をその場でしてもらう所までで時間切れ。さああ~大変。私の声をかぶせる所までいかず、CDとして完成するまでまだまだ、ハードルが幾つか。夏休みになるべく食い込まずに3期生の皆さんにお渡しできると良いのだけど~~~ 頑張ります。



私自身の7月終盤の「集大成」をひとつ。。。仏典に出てくるシャカの過去生のひとつとしてのエピソード。『捨身飼虎』(しゃしんしこ)

飢えたトラの親子のために、自分を食べなさいと身を供するお話。

そんなことは勿論、する必要ないのですが・・神智学的な視点・タマシイ論として語るならば、おそらく、愛の究極の体現であることから、神智学でいう「第四イニシエーション」(自己犠牲、キリストの十字架的なレベルの自己犠牲)により、恐らくそれで人類への転生を卒業するような秘教的イニシエーションであると言えるのかもしれません。

多分これは大げさな話ではなく、その時に発する意志と精神のエネルギー周波数を思えば、人類を卒業するための課題として、尤もだと思う。先日、あるカレッジのクラスで話題に出ていたスペインの映画「パンズラビリンス」も、そういえば、一言でいったらそうなのかもしれず。アセンションとは何かを、違う角度から考えることに通じるかもしれない。

「自己犠牲はもういりません」と、この世界ではよく耳にします。それは、シャーマンや巫女や聖職者、異端者などの転生が多いであろうライトワーカーの人たちの合い言葉のようにもなっていて、確かに、そういう過去生を現世ではもう、繰り返す必要はないから、そのような分身の自分からくる、過去の記憶を手放し、自分らしく生きながらライトワーカーをしていこうという、ポジティブなキャッチコピーなんだと思います。

私自身もそのレベルでいえば、尤もだと思うし、これまで沢山手放して解放し、更新して来たと思う。地球創世に関わるアンドロ天使の集合的な解放も一段落し、そこに関わった、あるいはそこから長く引きずったスピリット、ソウルにとっての様々な記憶のエネルギーを、もう手放しましょうという局面がこの春に展開し、深い所でとても楽になっていました。ですが・・・

非常に分かりにくい所で、自分自身にさえ気付かれないように、この『捨身飼虎』(しゃしんしこ)の精神が潜在意識で働いていたんだということを、初めて自覚。それは、かつてそういった(神智学の表現でいうと)『神聖なる犠牲』を通じて、アセンドし、高次へと遷移したスピリットの記憶から来ていたのではないかと、思う。それをすることが、自分のアイデンティティの一つのようであるかのように、三次元パーソナリティどころか、転生ソウルのレベルでさえ恐らく、ごく自然な自分の一部のように馴染んでいたのだろうと。

分かりにくい「犠牲」意識。自分を供してもいい、それで相手がより魂の世界に近づけるのなら。

そのために必要なドラマ、アストラルフォースの関わり合いの中に、自分を投じる。

これは、自分がそこを立ち去ろうと本気で、深い所から、「今なんだ」と深く刺さるように決意するまでは、何となく自覚していてもどうかしようとは、どうにかなるとは思わなかった不思議。立ち去り始めた時こそ、今迄居た場所が何だったのか、客観的に分析できるようになる。

気づいたことは、それを解放することで人の世に混じり生きていくためではなくて、
気づいたことで、自分はそうだったと寧ろ、スピリットの意識により比重を預けていく方向性。

だから、最近あちこちのブログで書くように、
解放する・手放すではなく、

「受け入れて、越えていく」

人間である生身の中に、その『必要性』をインストールする。そこでじゃまになる、摩擦を生み出す「パーソナリティ側の傷み』が、作動しないように・・そちらを、外して行く。

ようやく到達した、意外な、気づきとイニシエーションでした。

折しも満月を越えて、今日から8月です。



Love and Gratitude,
Amari